連絡ノートにまつわるお話

透明な秋の大気に黄菊白菊が見事に咲き匂うころとなりました。
こんにちは。洛和デイセンターリハビリテーション音羽のぼん・きちえもんです。

当施設では、利用者さんが来所されたら体温と血圧・脈拍(バイタルサイン)を測り、会話の中や目で状態を確かめてから、トレーニングを始めてもらいます
なかなかお家での様子を推し量ることは難しいのです。少しでも利用者さんの事を知り得るために、いつもと違う状態を感じとったり、前回のトレーニングより「その後、どうでしたか?」と声掛けをしています。

当施設には「連絡ノート」が置いてあり、その連絡ノートにいつも細かく利用者さんのお家での様子を書いてくださるご家族がいらっしゃいます
ご家族ならではの気付きや心配事、施設内では見ることのない様子などが手にとるように分かり、ありがたく拝読させていただいています

私事で恐縮ですが、私も実母を姉と二人で(姉がメインでしたが)介護しました。
しっかりした母でしたが、父が亡くなってからはガタガタと崩れ始め、姉と分担して実家に通いました。
親子という甘えなのか、女同士の確執とでもいいますか、帰り道はいつも「もう二度と来るもんか!」と思っていました
「お母さんも年なんやから、これが最後と思って優しくしてあげんと」と夫にたしなめられても、そうはなかなか思えず、母は母で「キツイ娘ですねん」と言っていました。

とてもとても厳しい母でした。
言葉遣いやあいさつ・行儀が悪いと、所構わず平手打ちが飛んできました。
子ども心に「鬼や!!」と思っていました
鬼と思う半面、何でもこなす母をスーパーマンのようにも思っていました
陸上選手だった母が杖がないと歩けない? 平行棒で歩行練習?? 転倒???
こんな仕事をしているのに「何でできないの?」と、自分の親の老化がなかなか受け入れられませんでした

母は母で、その現実を受け入れるのはつらかったと思います。
「これが老化か…」と受け入れ始めたら、今度は一つ一つが心配になりました。
「これしたら、こうなって危ない」「こうしとかないと困るよ」「もっと早く言ってよ」と、ものすごく口うるさい娘となりました。
ある時、ふと思いました。子どもの頃は、親にチョイスしてしゃべっていたなぁと。心配を掛けたくなくて。
「これは言うても良いこと」「これは黙っとこ」
立場が逆転し、母もそう思っていたのでしょう。

母が亡くなって、姉と二人「心残りは何も無いね」と話しました。
そして、ずっとそう思ってきました。

でも今、まさに毎日全力でお母さんと向き合っていらっしゃるこのご家族を見ていると、もう少し優しくしてあげることもできたかな? 何て思うことがあります
娘の負担になりたくない母とその母が心配でたまらない娘。どちらの気持ちも、痛いほど分かります。

思いの丈を読ませていただいても、拙い助言しかできませんが、少しでもお気持ちが楽になりますように、わが母をしのびながらお返事を書いています

by ぼん・きちえもん